てつぐうざんあんよういん
鉄宮山安養院
- 永代供養墓
平安末期 鉄宮山来迎寺安養院の開山の年は不明、寺伝によれば、安養院は、平安時代末期、下田村 大浦馬場 日随谷(ひずいだに)池の平に開創する。
当時、安養院は、「池の寺(いけのてら)」と言われ、白山権現信仰(はくさんごんげんしんこう)の寺であった。
その白山権現(はくさんごんげん)の主神である、白山菊理媛(はくさんくくりひめ)の本地仏(ほんじぶつ)、十一面観世音菩薩(伝、行基菩薩御作(ぎょうきぼさつおんさく))を本尊として、十代の間、法相宗(ほっそうしゅう)の寺院であった。
室町時代中期、英筭(えいさん)住職(永正六年十一月四日寂)の時に紀州根来寺(きしゅうねごろじ)の、新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)に改宗する。
鎌倉時代、この地が大面の庄と呼ばれていた頃、釜蓋城(かまぶたじょう)という出城(でじろ)があり、安養院は、この城の祈願寺としての役割を果たしていた。
永正三年~十一年(一五〇六年~一五一四年)上杉家の内乱で、越後の大乱といわれた、関東管領上杉顕定(かんとうかんれいうえすぎかねさだ)と越後守護上杉定実(えちごしゅごうえすぎさだざね)が争った「永正の乱(えいしょうらんのらん)」で戦功のあった定実(さだざね)側の三条城主 山吉久盛(やまよしひさもり)の家臣の佐藤弥太郎の領下に入ったが、釜蓋城(かまぶたじょう)は、永正八年(一五一一年)八月に廃城となる。
元和三年 (一六一七年)江戸時代前期 憲英(けんえい)住職の代に寺が焼失し、招請されて三条市一ノ木戸に移寺する。
慶安元年 (一六四八年)また、憲英住職の弟子の、弥彦村出身の隆長(りゅうちょう)は、水戸光圀公の親である徳川頼房に選ばれて光明院の住職となり、その後、埼玉県の明星院、東京都墨田区の弥勒寺の住職を経て、真言宗智山派の総本山智積院の五代目の能化(のうけ)に就任する。当山の本尊、阿弥陀如来は、隆長能化(りゅうちょうのうけ)が師僧に感謝し、京都の仏師である林左近(はやしさこん)に作らせて贈ったものである。
享保二年 (一七一七年)江戸時代中期 勢力争いのために左遷されていた村上藩主、松平輝貞(まつだいらてるさだ)が八代将軍徳川吉宗に重用され、高崎藩主に復帰し転封する。高崎藩の境界である、一番目の木戸を守る要所にある安養院に、藩主の帰依が厚く、同藩の祈願寺となり、明治の四年まで祈願料の寄進があった。当山には、高崎藩主松平輝貞(まつだいらてるさだ)のお位牌が奉られている。
明治三十三年 (一九五八年) 新義真言宗が智山派と豊山派に分かれる際智山派に属し、今に至る。
〒955-0063新潟県三条市神明町8-26MAP
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